原始筆界は本当に確認できるのか
土地家屋調査士 福田 晃 1 公図地域の筆界確認 (1)原始筆界について 公図地域(愛媛)の調査士にとって,原始筆界の確認ほど悩ましいものはない。その原始筆界が創設されたのは,おおよそ130年も前のことで,あの坂本竜馬が「大政奉還」(慶応3年)を献策して10年後(明治9年〜10年)のことである。ましてや,筆界の定義らしいものなどなかった。果たして,そんな時代に創設されたとされる原始筆界を本当に確認出来るのだろうか,また,現在本当に確認出来ているのだろうか。確認出来るとすればどのようにして確認することが出来るのだろうか。 学者は,「一筆の土地の外縁すなわち筆界は,地番の成立とともに当然成立し,不動のものとして存在するが,目に見える存在ではない。極端な例を挙げれば,「地番」が登記図簿上存在する以上,その記載が無効でない限り,例え地図が作成されていなくとも,あるいは,地図混乱地域であっても,地番境としての筆界は地上のどこかに必ず存在するといえる」。と記述している(筆界の理論と実務寶金敏明著p14)。 しかし,赤い線が引かれているわけではないし,杭が打たれているわけでもない。その上,創設以後130年ほどの間に,日本は急激な発展を遂げてきた。その発展の過程の中で土地の境界(筆界)も改変されてきている。それは,地球の自然現象による変化であれば数千年から数万年はかかる程の急激な改変である。しかも,約130年の内,概ね90年間は筆界を維持しようとする意識をもって改変されたものではない。そんな状況の中で本当に筆界が確認出来るのだろうか。それでも調査士は,筆界の専門職などとおだてられているため(陰では,素人も専門家の筆界確認も大差ないと言われている),なんとか確認したふりをしなければならない。また,多少なりとも理論的なことも言わなければならない。よって,一筆切図(野取図),畝順帳,肩書訂正などを「錦の御旗」のように掲げ,さも確認したふりをしてお茶を濁している。これら資料は筆界を特定する目的で作成されたものではないため,復元能力など備えておらず,この附近,と位置を特定するのが精いっぱいである。その上,これら資料さえ存在しない地域も少なくない。それでも筆界は確認できる,とされている。 (2)筆界の定義と確認義務 調査士には,筆界の確認が義務付けられているが,その定義は原始筆界創設からあったのか,また,創設された時から確認が義務付けられていたのだろうか。私の知る限りでは,筆界定義というより活字として表記されたのは昭和52年9月3日細則・準則が一部改正(以下「昭和52年改正」という。)され,細則第42条ノ4第2項及び準則第98条第2項に「筆界」と表記されたのが初めてではなかろうか。その時点でも,何をもって筆界というのかには触れていない。明確に定義されたのは平成17年4月13日法律第29号で不登法一部が改正され,その第123条に「1筆の土地とこれに隣接する他の土地との間において,当該1筆の土地が登記された時にその境を構成する2以上の点及びこれらを結ぶ直線」と規定されてからではなかろうか。その直線とは,幅がないという。公図地域で幅の無い筆界が確認できるというのなら,それは創設というのではないか。筆界と創設は実に‘あいまい’である。14条地域では精度の範囲内であれば筆界といえるのだろうが,公図地域には精度がない(もっとも,地積測量図作成には精度が規定されているが)。よって,合意された位置を筆界といっているのではないだろうか。それは,創設でもあるのではないだろうか。もっとも,理屈の上では,原則,所有権の下には筆界が存在する,といわれている。しかし,納得いきかねる場合もある。 その原始筆界が創設されて以来,約130年経つが,昭和52年改正までの概ね90年間は,所有権界と筆界の区別はなく,学説や判例の中で観念的に存在するだけで,国民も調査士も現況の所有権界が筆界としか理解してなかったのではないか。登記所もまた,大差ない認識ではなかったか。よって,概ね90年間は,現況を筆界として取り扱ってきた。そのような状況の中で,今,筆界は点と点を結ぶ直線と定義して公図地域の筆界は本当に確認できるのか。また,例え筆界が確認できたとしても,調査士には認定する権限もなく,所有権者または行政の管理者などがNOといえば確認できない。また,権力者や声の強い者,ごね得をする者に左右される。如何に公図地域の筆界確認は「あいまい」であるか痛感する。 このような‘あいまい’な確認しか出来ない筆界確認を,国民から認知されるような確認とするにはどうすればよいか,皆で知恵を絞る必要がある。思うに,測量技術は勿論であるが,先ずは,130年の過去に創設されたとされる筆界の創設経緯,その後の運用,創設に係る古文書の読み方,法令・判例の変遷,社会状況の変遷と文化の進歩など幅広い知識を習得して,筆界確認に対処することが最も理解を得られる手段ではないかと思われる。不登法第143条も総合的判断を求めている。 2 筆界の創設と地図作成 (1) 筆界の創設 また,地租改正事業の成果が各地方の便宜に任せ,技術不熟練な人民に任せたこと,極めて短期間に作成した,などにより一筆の土地の広狭状況などは実地と適合しないもの,脱漏や重複するもの,さらには土地の位置が転倒するなど不完全なものが多かった。として,明治18年2月大蔵大臣訓令秘第10号「地押調査ノ件」によって,齟齬ある土地について更正させた。しかし,愛媛には,その成果の更正野取図(切図)が一部の地域にしか保存がないため,更正されたのか,またはその後,筆界の移動があったのか判断がつかないことが筆界確認をさらに難しくしている。 (2)愛媛の公図作成と備え付け 一般に,地租改正事業は,明治9年から14年にかけて行われ,同時に公図(改租図)が作成されている。その地租改正事業の成果は,各地方の便宜に任せたことと,技術不熟練な人民に任せたことによって一筆の土地の広狭など実地と適合しないもの,脱漏や重複する土地がるなど不完全なものが多かった(分筆登記の実務p155)。そこで明治政府は全国的に明治18年から21年にかけ更正させた(明治18年2月大蔵大臣訓令秘第10号「地押調査ノ件」)。また,地図も明治20年6月大蔵大臣内訓第3890号)「地図更正ノ件」をもって更正させた。全国的には,この更正図が明治22年の土地台帳(現在の表題部にあたる)に地図として備えられた。 しかし,愛媛の公図は,明治9年から10年にかけての約1年数ヶ月,岡山県の測量師「平松誠一ほかその弟子850余名」が四国に渡り,四国四県の地図作成を請負または指導をして作成した,と記録が残っている。その精度が良かったため更正図を作成する必要がなかったのか,または作成されたが所在不明となっているのかについては不明であるが,愛媛の公図は,更正図ではなく,地租改正事業によって作成された「改租図」が公図として備えられている。 (注)愛媛の公図の大方は,現況と米軍の空中写真の地形が概ね整合することから,精度がよかったと推測される。では,明治18年の地押調査も行われなかったかというと,更正野取図や肩書訂正が存在し,その成果と土地台帳の登録事項一致することから更正作業は行われている(ただし,全筆ではない)。よって,更正された土地は地形も更正されている。しかし,公図は,更正前の改租図なので現況と公図は一致しない。よって,現況の筆界は正しいのに公図と一致しないとして地図訂正をする危険性がある。そのためにも,地租改正事業や更正事業について知っておかなければならないのではないだろうか。 下記図面は,改租野取図と更正野取図の例(地形だけでなく,隣接する溝渠の存否が大幅に更正されている。) 3 土地台帳制度施行後の筆界認識 (1)土地台帳の運用 明治22年土地台帳規則が制定され,地租改正事業(更正作業含む)の成果が土地台帳に登録,公図が備えられ税務署で所管,運用された。地租は,国税徴収を目的とした制度であったから,社会情勢の変遷に対応して運用も変遷している。土地台帳規則制定以降,日本は,日清戦争,日露戦争,第一次大戦,日中戦争,太平洋戦争とほぼ10年ごとの戦争に参戦または開戦して関わってきている。その戦争には,一年間の国費を超える戦費が費やされている。そのため,国の経済は窮乏し国費を捻出するため,地租が簡便に徴収できるように時代の経過ととも運用が簡略化されたり,省略されたりしている。そのため,公図と現地の境界(界筆)が徐々に不一致となっていっている。 @明治22年当初の分筆登記は全筆測量であったが,明治31年には主税局回報坤第7477号ノ2によって,残地省略となる。(地籍測量図in愛媛p19) (手続き規程としては,大正10年地租事務規程に初めて規程される。) A明治35年になると,主税局回報第205号によって,地形図ノミニテ処理シテ差支ナイ。と指示している。(地籍測量図in愛媛p20) (手続き規程は,昭和10年地租事務規程に初めて規程される。) B昭和初期の時局匡救事業 大正3年に始まった第一次大戦後の世界的大恐慌によって日本も失業率5割という大不況に見舞われた。その影響を最も大きく受けた農山漁村民救済のため,政府は,農道水路の改修工事,小規模耕地整理事業などを全国に発注し,少額ながらも給与収入の職を提供した。これによって,農道水路が別の位置に付け替えられたり,新たに設置されたり,小規模耕地整理を行ったが,登記はされなかった。それが現在,地図と現況の不一致,耕地整理後登記されず地図混乱を起こしているなど大きな影響を及ぼしている。 C軍用施設の強制収用 昭和16年に始まった太平洋戦争に対処するため,軍用道路,軍用空航用地などの確保のため強制収用されたが概ね登記されなかった。よって,現在地図の混乱状況または地図混乱を起こしている。 D農地解放(自作農創設特別措置法) 明治初期,近代的所有権制度の確立によって,それまで高額の年貢を徴収される封建的な農民的所持権しかなかった農民が土地の所有権を手にして自作農となった。その土地所有者には,江戸時代の年貢と変わらない高額な地租を納める義務が課せられた。しかし,多くの自作農者は,その後の貨幣経済の変動によって地租が納められず,土地を手放し,再び小作農に転落していった。それらの土地は,富農や高利貸しの元に集中し,大地主化した。そうした富農や高利貸しに小作農達は,収穫の40〜60%を搾取され貧困に喘いでいた。一方,大地主となった富農や高利貸しは,労働することなく豊さを独占した。このような地主たちのことを「寄生地主」と呼んでいた。 太平洋戦後,日本を統治したGHQは,前述した寄生地主的土地制度がもっとも民主化を阻害しているとして,農地の適正配分を実施した。これが,大化の改新,太閤検地,地租改正に次ぐ四大土地改革と呼ばれる農地改放である。この改革によって,政府が寄生地主たちの土地を強制買収し,小作農に年賦払いで売渡した(その後,急激なインフレでただ同然となる)。その移動筆数は3860万筆といわれる(欄外登記及び旧表題登記についてから引用)。その時の分合筆など土地台帳手続きを現在行うと50年は要すると言われるものをわずか3年程で完了させた。3年で完了させなければ沖縄の米軍基地に連行して強制労働させるとGHQが脅迫した(人間と土地の関わりp90)。そのため,境界(筆界)を無視した分筆,地積測量図の作成間違い,公図と地積測量図の不一致,未墾地を買収し,登録地成(表題登記)して売渡したが,自由に開墾したため境界が不明となるなど多くの問題を残している。その手続きは,特別法「大蔵農林省令2号2条」によって行われている(土地台帳法第44条に,国有地は適用しないと規定されていた)。現在,地図訂正を要する事案の多くはこの手続きによることから,この特別法「大蔵農林省令2号2条」を理解しておく必要があるのではなかろうか。 (2)昭和25年土地台帳が登記所へ移管されるまでの境界(筆界)確認 筆界は,明治初期,創設された時から,筆界理論が存在し,維持されてきて いることが前提となっているのではなかろうか。しかし,地租改正事業によって筆界が創設された時から現在までの約130年の間,日本の経済は,世界第2位(現在は第3位)にまで上り詰めるという目覚ましい発展を遂げてきた。その発展過程の土地利用によって土地の境界(筆界)も有効利用が出来るように改変されてきた。その土地有効利用は,昭和52年までの概ね90年間,筆界を無視した(現実は筆界理論を知らなかった)状況で利用されてきている。しかも,昭和25年までの土地台帳手続きによる土地の異動は,地租徴収が目的で税務署が所管し,登記所移管後昭和52年までの手続きも大差なかった。よって,国民も筆界理論など知る由もなく,所有権界を境界(筆界)と認識した手続きが行われた。 (3)学説,判例など筆界理論の変遷 原始筆界が創設された明治の初めは,所有権界の外縁が筆界であったから,所有権界と筆界は一卵性双生児の関係にあり,その区別の必要がなかった。それが時の経過と共に,天災または人的理由によって境界が不明となり争いが生じ,所有権の範囲だけでは解決できない事案(取得時効など)が生じ,次第に所有権界と筆界を区別する必要が生じたのではなかろうか(私見)。 先の愛媛会研修で配布された「判例タイムスNO270」によれば,所有権界と筆界の区別は,大正の初め頃から訴訟をとおして学説,判例によって変遷してきたようである。その内容は難解で私には理解困難であるが,昭和43年に昭和9年の判例が変更されて以降,筆界が定義付けされたものと思われる。よって,それまで調査士が現況主義による地積測量図を作成してきたことはやむお得なかったのではなかろうか。また,この時点においても所有権界・筆界の両方とも「境界」と呼称された。しかも,明確な定義説明もなく判決理由の中で判断するしかなかった。その判断には学説など,事前の知識がなければ判断できなかった。よって,多くの調査士を含め,事前の知識を持たなかった国民には理解できず,その後も現況主義による確認が続いたのではないか。
4 昭和25年土地台帳の登記所移管 戦後,GHQの指導によって,国税であった地租は地方税となり,土地台帳を税務署に置く必要がなくなり,登記所に移管された。移管に伴い,従来地租徴収のための課税台帳的な性格であった土地台帳が,「専ら土地の状況を明確にするための地籍簿的な公簿と,その性格を一変」して移管された。(不動産の表示に関する登記精義p10)。また,土地台帳施行細則第2条第2項に地図を備える「地図は土地の区画及び地番を明らかにする」と規定された。 移管後の土地台帳と公図は,土地の状況を明確にする,地図は区画を明らかにする。とされたのであるから,筆界を明らかにした新たな地図が備えられなければならないはずが,戦後の混乱のためか旧土地台帳附属地図がそのまま送付され備えられた。不動産の表示に関する登記精義によれば「もっとも,改正法が要求していた厳密な意味においての土地の状況の明確な登録は必ずしも必要でなく,要は,税制度の総合的見地から,地租と他税との均衡及び土地所有者に対する公平課税がその狙いであって,いわば,現況に近い大体の土地の状況が把握されれば,その目的は達せられていたものと推測される」(不動産の表示関する登記精義p12)と記述されている。いわば,土地台帳の規定とは裏腹に,登記所移管後の申告手続きも,従前の税務署で運用された土地台帳手続と何ら変わる必要がなかったと思われる。登記所にしても,それまで権利の登記しか経験がなく,土地台帳手続に関する知識など全くない上,大福帳(それまで土地台帳及び登記簿は大福帳であった)のバインダー化に忙殺されたことなどが重なって,やむお得なかったのかもしれない。それにしても,移管後の土地台帳は,権利の明確化に寄与するはずが,税務署時代より杜撰と思える(机上分筆や南北が転倒した地積測量図など)が受理されているのは,国民に(登記所も含め),筆界理論が存在しなかった証ではないだろうか。
(2)昭和25年土地家屋調査士法制定 土地台帳の登記所移管に伴い「土地台帳及び家屋台帳の登録につき,必要な土地または家屋に関する調査・測量及び申告手続が的確に行なわれるか否かは,国民の権益ならびに国家経済にも,きわめて重大な影響を及ぼす,よって,資格制度が必要。」(日本を図る人々p226以降参照)として「土地家屋調査士」制度が制定された。 こうして国民の権利の明確化に寄与すると期待されて制定された調査士制度であったが,当初,調査士となるには,不登法の知識が無くても,測量士・測量士補・二級建築士等の有資格者であれば申請することによって資格が得られた。(但し,法務局長等の選考を受ける必要はあった)。そういう状況であったので,土地台帳関連法や不登法,公図はもちろんのこと,筆界理論に関する知識は皆無の状態であったと言ってよいのではないか(最も,筆界については昭和52年まで大方の調査士は理解出来てなかった)。よって,所有権界を境界(筆界)として地積測量図を作成した(いわゆる現況主義)。 なお,当時は「地域社会における土地区画の承認関係の存在」がり,今日のように人間の交流が盛んでなく,人間の居住関係が一定し,どこそこの土地が誰の所有であるか,など,村や町の誰もが知っており,そこに争いなど生じる余地がなかった。したがって,そこに存在していたのは,人間の信頼関係であって,地図や登記簿は,その補完的意味しかなかった(なお以下は登記研究641p8から引用)。よって,一部交換したり,一部譲渡したりして公図や登記簿と違っていても,信頼関係によって地域住民がそれを認識していればそれで足りていた。登記所にしても調査士にしても同様であったと思われる。 この時代の地積測量図(土地台帳法第39条第1項)による申告書添付図面の写し)が一部地域の市町村役場に保管されている。筆界確認の必要上,その閲覧を請求しても役所側は公開することによるデメリットの方が大きいとして公開に応じない。(表向きは情報公開文書に該当しないことを理由としているが)そのことは,いかに現況主義によって作成された地積測量図が多かったかを物語っているのではないか。
5 昭和25年登記所に備えられた公図 明治22年土地台帳に備えられた公図(改租図)は,税務署に備える必要がなくなったことから,土地台帳とともに登記所に移管された。公図は,税務署所管時代,単なる内部資料とされ閲覧を含め地図に関する規定は何もなかった。それが,移管に際し,土地台帳法施行細則第2条に地図を備える。と規定され,しかも「土地の区画及び地番を明らかにする」と規定された。いわゆる,土地の状況(筆界)を明らかにする地図とされた。筆界を明らかにする地図なら,地籍地図なみの精度のある地図を新たに作成して備えるべきであったと思うが,復元機能の無い前述の土地台帳付属地図をそのまま地図として備えられた。その運用は(上記3(1)(2))のとおりである。
6 昭和35年不登法一部改正に伴う土地台帳と公図の廃止 (1)登記簿と土地台帳の一元化 従来の制度のもとにおいては,先ず,土地台帳法に基づき分合筆や地目変更などの申告をし,続いて,同じ登記所の登記簿表題部(権利の登記の一部であった)の変更登記をしなければならないという二元的な制度であった。 そのため,国民に二重の負担と経費を強いるという制度的欠陥があった。それは登記所も同じで,この欠陥を除去するため,登記簿と台帳を一元化したのが昭和35年不登法一部改正による一元化作業である。この一元化作業実施に伴い,土地台帳と公図は廃止された。公図の廃止に伴い新しく精度の高い法第17条地図が備えられることとなった。その一元作業には時間を要するため,経過措置で,完了まで土地台帳法が適用された(付則2条3号,3条)。よって,廃止された公図も(土地台帳事務取扱要領第93条)によって閲覧ができる筈であった。だが,法的根拠を失ったこと,いずれ新たに精度の高い17条地図が備えられること,当時の民事第三課長が17条地図は精度が高く公図とは異なる,と力説したことで「公図はダメな地図」と誤認され,一元化開始から昭和52年頃迄の間,杜撰に取り扱かわれた。よってその間,分筆線が記入されなかったり,集合表示とされたもの,現況(地積測量図)と公図が極めて不整合なものなど,昭和35年から52年までの間,公図がもっと混乱した時期ではないだろうか。 一元化が完了した年は,次のとおりである。 東予=昭和46年(西条支局管内) 中予=昭和42年(本局管内) 南予=昭和46年(宇和島支局管内)(地籍測量図in愛媛p48を参照) 上記(1)のとおり,一元化に伴い公図が廃止され,新たに17条地図が備えられることとなった。しかし,周知のとおり備えられず,現在もなお備えられない地域が少なくない。一元化は,全ての登記所で完了するまで概ね10年を要するため,その間,経過措置によって旧土地台帳法が適用された。そのため,公図も閲覧が出来るはずであった。しかし,法的根拠を失ったこと,いずれ精度の高い17条地図が備えられる,公図はダメな地図との誤認などが重なって,閲覧が制限されたり,一部地域では禁止されたと聞く。地図がなければ土地の区画及び地番を知ることができず,土地の状況を明らかにすることも出来ない。そのため,通達などによって便宜的措置がとられた。 ● 昭和37年10月2日民事甲第367号民事局通達 17条地図が備えられるまでの間,便宜従来どおりの取扱い(昭和26年通達)とする。(分筆登記の実務きんざいp159) その従来通りとは(以下はいずれも概要を表示) ア 昭和25年7月31日法務省民事甲第2111号民事局通達 申請人の請求があるときは,土地台帳と共に地図をも閲覧させて差し支えない。この場合,閲覧申請書を徴する必要はない。(きんざいp158) イ 昭和26年3月8日民事甲第457号民事局通達 昭和25年通達は,便宜的措置にすぎず合理的に制限するのが相当である。 ウ 昭和37年10月8日民事甲第2885号民事局通達(inp53) 地図の記載が土地の現況と相違するため,現況による地形図の修正が困難な場合は,可能な範囲において分割線を点線で記入し,地番を記入する。著しく現況と相違し,上記手続が出来ない場合は,「501,5の2に分割」の振り合いで記入する。と通達した。いわゆる集合表示を認めた。 エ 昭和39年12月2日民事甲第3901号民事局回答 地図の閲覧は,原則として禁止し,分筆登記などやむおえないと認められる場合のみ許可する取扱いとし,合理的に制限するのが相当である。(きんざいp159) このように,公図が廃止されて以降,閲覧は,通達などによって様々な制限を受けた。しかも,現地と公図の整合が無視されたり,集合表示としたり,分筆線の記入を怠るなど粗雑に取り扱われる事態が生じた(登記研究641p5)。 実際,私が昭和47年に開業したころには,「廃止された鼻紙のような地図だだから現地と整合の必要はない。」とした取扱であった。 丁度この頃,日本経済の急成長と重なり,事業用地,住宅団地,一戸建住宅用地などが大量にまた大規模に,農地や山林が埋め立て,切り崩され,しかも虫食い状態の乱開発が行われ工場や宅地へと変わっていった。しかも,その台帳申告手続及び一元化完了後の登記申請手続きは,現況主義によって行われたため,現地と公図が一致しないもの,分筆線が記入されないもの,集合表示とされたものなど,いわゆる地図混乱状態となっていった。当然,財産をはたいて手にした土地の所有者は,不完全な権利の土地であることに怒り,紛争を起こし訴訟を提起することになった。特に訴訟が多発したのは昭和40年代後半頃のことである。よって,この時代の地積測量図の取扱には特に注意を要する。
7 昭和52年細則・準則改正 そこで,法務省は昭和52年細則・準則の一部を改正し,現地と地図(公図)が整合した地積測量図の作成基準を定め,廃止された公図を再び「地図に準じる図面」として備えることとした(準則第29条)。同時に,細則第42条第2項及び準則第98条第3項にはじめて活字として「筆界」が表記され,不動産の表題登記は筆界であることを明らかにした。また,「不動産の表示に関する取扱要領」が制定され,境界立会が義務化された。ほとんどの調査士が筆界を認識したのはこの時からである。その他,改正によって下記の規定が新設された。 @ 細則第42条の4第2項 →境界標の明示 A 準則第25条,27条 →地図の作成基準(基本三角点を基礎とする) B 準則第97条 → 地積測量図の誤差の限度は地図と同一とする C 準則第98条 → 筆界点と地物との位置関係の表示 D 要領第5条 → 不動標識設置の奨励と表示義務 E 要領第6条 → 境界立会義務,隣接境界線証明書の添付義務 F 要領第9条 → 地積測量図と地図の整合義務 G 要領第12条 → 提出済地積測量図との整合義務 これによって,不動産の表示登記は筆界であることを明らかにし,その筆界の特定と復元機能を備えた地積測量図作成基準が定められた。と同時に,境界紛争を予防する観点から境界立会義務が要領によって定められた。この改正によるも,その後の研修による知識の修得までは,現況主義で調査測量が行われたことは否めない。
8 その後の研修など 昭和52年改正以降は,愛媛県調査士会は積極的に研修に取り組んだ。地租改正はもとより,法令研修,測量技術の研修によって,(殊に,県下全会員による「鷹の子17条地図作成」)は,測量技術,筆界確認のし方,不動標設置のし方等など,理論と実技両面にわたる知識の向上を図った。また官民境界の財産管理者との立会義務と地積測量図への確認番号の記入義務化,地積測量図の高度化,境界標(アルミプレート)の作成など活発な活動が行われ,最先進県として他県からの視察研修が絶えなかった。そうして国民の理解が得られる筆界確認に努めてきた。しかし,まだまだ,地租改正や土地台帳申告書の写しを保管する一部行政などの理解が得られないのは残念なことである。また,境界立会が義務化されたことにより,一部の国民は,筆界確認を権利と錯覚して金銭を要求したり,権力者や声の大きな者に左右されたりする結果を招いている。それは,国民に筆界と所有権界の区別が理解されてないこと,確認権限は,所有権者や行政の管理者側にあるなど,やむお得ないことかもしれないが・・・。それらを回避するADRの技能習得は今後の課題ではなかろうか。
9 公図地域の筆界確認の経緯 (1)‘あいまい’な原始筆界の創設 公図は,その創設目的から,14条地図のように筆界を調査し,復元を目的として作成されたのではない。地租を徴収する目的でその土地の耕作収益のある部分(畦際まで)の反別を調査し,地図もその所在位置が分かる程度に作成され現在に至っている。よって,一筆ごとの地形及び反別は必ずしも14条地図のように現況を正確に表示されたものではない。その程度の成果が土地台帳に登録されて以降,税務署での約63年間と登記所に移管されてから昭和52年までを合わせて約90年に亘り,筆界が維持されない運用がされるという経緯をたどっている。筆界を意識して運用されたのはわずかこの30年程である。 それでも,地番が存在する以上必ずどこかに筆界が存在する,とされている。しかし,一方でそれは,「神のみぞしる境界」とも言われている。また,愛媛界研修において,上原裁判官は私見としながらも「土地の境界は一定幅を持った面で決められていて,境界線は存在しない」といっている。判例タイムズの記述が難解なのも,そのように筆界の‘あいまいさ’から抜け出せてないからではないだろうか。その掴みどころのない公図地域の筆界を,国民の理解が得られるように理論的に確認するにはどうすればよいか,調査士にとって実に悩ましい問題ではある。 今,筆界特定制度ができて国民に積極的に活用されている。この制度における筆界の特定は,「登記記録,地図又は地図に準じる図面及び登記簿の附属書類の内容,対象土地及び関係土地の地形,地目,面積及び形状並びに工作物,囲障又は境界標の有無その他の状況及びこれらの設置の経緯その他の事情を総合的に考慮して特定する」と規定されている(不登法第143条)。いわゆる‘あいまい’な筆界を国民の理解が得られるように確認するには,総合的な知識を習得して対応する必要があるということではないだろうか。
(2)資料の収集は欠かせない ‘あいまい’な筆界を少しでも理論的に確認が出来るようにするには地租改正資料は欠かせない。その資料は,130年も前のことであるから,保存がないものも多い。そんな現状の中で,せめて存在する資料は出来るだけ多く収集することが国民の理解を得る筆界確認の一助になるのではないか。 原始筆界は‘あいまい’であるがゆえに,出来る限り理論的(総合的)に説明しなければ素人も専門家も同じ,との批判から抜け出せない。よって,例え,公図や資料による確認ができず,合意に頼るしかない場合でも,確認に必要な資料の探索をしたが存在しない旨,制度の変遷と運用,創設後の分合筆の経緯,法令の変遷,社会情勢の変遷など,筆界が不明となった状況説明をすることによって,納得した上での合意による確認が得られると思う。よって,資料の調査収集は,積極的に探索すべきではなかろうか。また,資料は古文書的なものが多い。よって,集収しているとその判読能力もついてくる。引いては,国民の理解に繋がるのではなかろうか。
(3)公図地域で合意を省略すれば必ず紛争が起こる 公図は,数値的に筆界を復元する機能は備わっていない。また,上原裁判官の私見のとおり,筆界と大きな関わりのある畦畔は平均幅でしか調査されていないか,または調査がされていない。よって,筆界はその幅のどこかに存在するとしても,隣接する当事者にしか分からない。よって,公図地域では「当事者の筆界認識の一致を確認」するための合意は省略出来ない。上原裁判官は,それを共有物の分割である,と言っている。よって,合意は第1級の資料と言われる所以ではないだろうか。もっとも,その合意は,公図やその他の資料と整合した上でのことであることはいうまでもない。また,その際,地租改正や,その後,どのように運用されたのか,学説や判例はどうであったか,国民の筆界の理解度,税務署や登記所の取り扱い,社会情勢の変遷,法令の変遷などを説明することによって,大きな声やごり押しを避ける手段となることも多い。そうして納得した上では,調査士の示す合理的な筆界で合意が出来るのではないか。 筆界は不動のもであるから立会は不要,との意見をよく聞く。それは,よほど勉強している者に言えることで,大方は省略すれば紛争が起きる。綱紀事件に上がってくる事件のほとんどは,立会を怠ったもの,または,専門家が筆界と判断したから省略した,とする事案である。 調査士が立会を省略できる場合とは,平成22年3月17日首席登記官回答「図根点,数値,境界標が設置され,しかも,境界は確認済みであり(境界確認書も存在する),現地の筆界を当事者が境界と認めていることが明らかな場合,立会を省略しても差し支えない。」だけである。調査・測量実施要領にも同様の規定がある。
(4)境界標の埋設は重要,しかし理解が得られにくい 筆界に境界標(不動標識)を埋設しておけば,紛争の殆んどを避けることが出来る。ところが,国からして境界標埋設には理解を示さない。一筆の土地の安定は堅固な境界標が埋設されているか否かによって決る。といっても過言ではない。境界標さえ存在すれば先ず紛争が起こることはない。そのため,調査士はその境界標を精確でしかも堅固に埋設しようと,復元技術を屈指し,汗して穴を掘り,根巻き用生コンを練って埋設する。よって,1本の杭を埋設するには,原則,補助者と二人で1時間以上を要する。状況によっては数時間を要する場合もある。この復元と埋設作業は,現況を測量する作業よりはるかに技術と労力,経験を必要とする。にも関わらず,国,県,市町村からして,境界標埋設は労務者の仕事と考えているのか,その技術と労働にたいする対価は限りなくゼロに近い。それにならってか,国民も境界標埋設の要求はするがその対価には理解がない。国道や県道,高速道の側道に埋設されている20cm角のコンクリート杭は,見かけは立派で堅固だが,その埋設は労務者に任せているそうで,埋設精度は悪く成果と整合しない。よって,後日,隣接地を調査測量する際,大変な苦労を要する。
(5)国民に筆界知識の説明の必要 おおよそ130年前に創設された筆界が法律に条文として明確に定義されたのは,わずか6年前の平成17年4月のことである。法律に定義されたといっても国民に向かってその説明がなされなければ国民は理解できない。よって,未だ,所有権界を筆界と誤認し続けているのではないだろうか。 表題登記によって,不登法が所期する権利の明確化を図るには,国民の理解が欠かせないと思われる。筆界は,国が管理している。しかし,現実には国民が維持管理し,自由に移動させる権限を持っている。よって,移動させたとき,登記するしないも国民次第である(もっとも,報告義務は課せられているが)。よって,筆界を移動すれば登記義務が生じることを理解し,国民自ら進んで登記をする意識をもつようにしなければ筆界を維持することは難しいのではないか。もっとも,国家基準点から確認しておけば維持ができるかもしれない。しかし,現在130年前の筆界が確認不能となっているように,100年,200年先まで可能だろうか。 とにかく,国民の理解を図るには,調査士などの専門家が地域の自治会活動などを通して,地道に説明し続けなければ理解は望めないのではないか。連合会会報658号p13でも国民からそれを望んでいる。
あとがき 調査士にとって,後ろ向きの原稿となってしまったきらいがあるが,好きなように書いてよい,との依頼であったので,私が日頃疑問に思っていることを気ままに書いてみました。よって,何の役にもたたないことをお詫びします。なお,文中,境界と筆界,地図と公図など勝って気ままに使用し,統一した使い分けが出来てないことも併せてお詫び致します。
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