昭和40年代の図解法による地籍調査・骨格
●はじめに
地図に表示された境界を復元するにあたり,地図がどのように作成されたのかその経緯を
知ることは大切なことです。特に不動産登記法第14条1項により法務局に備え付けられてい
る地図(以下「法14条地図」という。)は,地図から境界が復元出来るものとされています。
法14条地図には法務局作成のもの,国土調査によるもの,土地改良事業,区画整理等によ
るものがあります。その中でも大部分を占めるものが国土調査による地図(以下「地籍図14
条地図」という。)です。
国土調査は,昭和26年の国土調査法が施行され,その当時の地籍調査作業規程準則をもと
に実施されています。この地籍調査作業規程準則についても数回の大改正があり国土調査の
実施された時代によっても取り扱いが相違しており更に地域性等さまざまな条件があり全部が
同一の条件で作成されているとは限りません。
中には法14条地図として備え付けられなかったものもあります。逆に本来法14条地図の要
件を満たしていないものが法14条地図となってしまったものもありますが,特殊なものは特殊
なものとして個々に処理する必要があると思われます。
大部分の国土調査による地図は法14条地図(以下,地籍図14条地図という。)として法務局
に備え付けられ,国民の生活の中に浸透し,商取引にも活用されています。
これらの地図がどのように作成されたのか,今から国土調査を新たに行なう場合の説明は
測量機械の精度を含めて,社会的,経済的背景等を皆が共有しているため容易に理解することが
出来ます。
しかし,古い時代の国土調査の作成経緯については,時代的背景や使用している測量機械
測量の知識技術を含めてかなり相違しており,現在使用されている地籍調査作業規程準則を読
んでもなかなか理解できません。
そこで国土調査地区で業務を行なおうとする初心者のために,昭和40年代の図解法により
実施された地籍調査について簡単に説明することとします。
実際に地籍調査を実施したものではなく,資料等での推定も多くあり,勉強不足で間違った
事を記載しているかもしれませんが,出来るだけ理解しやすいように説明してみました。
●基本三角点
国の事業として明治時代から大正時代にかけて一等,二等,三等三角点が日本全国を網羅する
形で設置されています。
一等三角点は約45kmに1点,一等三角点補点は約25kmに1点,二等三角点は約8kmに
1点三等三角点は約4kmに1点の目安で設置されており,これらは,何回かの改測や新設が
あり現在に至っています。
一等三角点ではありませんが,地元の二等三角点の「点の記」が手元にありましたので掲載し
ます。点の記の書式は新しくなっていますが,三角点は「明治時代」に設置されています。
「点の記」は平成5年のものです。
三等三角点の「点の記」も掲載しておきます。永長については「点の記」が書き換えられる前
のものですが,陸軍により設置されていることがわかります。坂戸は,地籍調査のために昭和30
年に再設されたものと思われます。
下図は5万分の1の地形図「八幡浜」に記載された二等三角点西山田,三等三角点永長を含む
三角点網図です。太線の表示と細線の表示がありますが,二等,三等三角点を結ぶ線が太線
四等三角点とを結ぶ線が細線のようです。海岸部の網図ですので,その形状が解りやすいと思
います。日本全国に,このような三角点網図が出来あがっていることに驚かされます。この網図
の水平位置の基準となっている位置が東京にある日本径緯度原点ということになります。
日本径緯度原点の経度,緯度および鹿野山方向の方位角は天文測量により求められ,測量法に
明記されていました。
日本径緯度原点(東京都港区麻布台2丁目18番1)
東経 139°44′40″5020
北緯 35°39′17″5148
原点方位角(鹿野山三角点方向)
156°25′28″442