誤 解


          ( おじさん と おばさん の もめ事 減歩)


                         土地家屋調査士 滝上 洋之


   お隣同士のおじさんとおばさんのもめ事です。
   境界紛争といえば境界紛争なのですが・・・。戦争中に空襲を受け市街地は壊滅
  し,戦後復興の為に区画整理を行った地方都市での話です。かなり複雑な事情が
  あるのでまずこの地方都市の戦災復興による区画整理について説明します。問題
  になった場所は,区画整理を行う前の昭和7年に耕地整理がされています。この耕
  地整理の成果は土地台帳に反映され,結果的に地図も「地図に準ずる図面」(以
  下耕地整理図という)として登記所に備え付けられました。土地台帳と登記簿の問
  題もありますが,ここでは問題なく一元化されているものとして説明します。


戦災復興誌から区画整理の概要説明
   昭和33年に発行された戦災復興誌(建設省編)によれば,この都市の区画整理
  事業は昭和21年に開始され昭和25年度に完了する予定でした。昭和21年度に換
  地設計の基になる1/600の丈量図を作成するための現形測量が開始されました。


   施行規程に基づく地積の更正の基となるものなので,隣接地との境界線の測量
  に関しては関係権利者の立会いを求め正確を期すように努めたが,戦災の後なの
  で境界の不明瞭な箇所が多く,この作業は非常に困難を極めたが全区域にわたっ
  て1/600の丈量図(以下丈量図という)が作成されました。


   その後換地計画に基づき確定測量を行い,昭和22年4月に換地予定地の指定を
  開始し昭和29年3月一応指定を終了した。従前の土地と整理後の土地とを対照し
  た図面を換地予定地指定通知書に添付して所有権者,借地権者別に送付した。換
  地予定地指定通知書到着後30日の期間を置いて使用開始するものとした。
   ただし建物移転等の為特別の考慮を払わなければならない土地については,各
  権利者と協議の上使用開始の日を決定した。


   昭和27年度までには大部分を完了したが未だ換地処分が終わらないので,換地
  計画の一部変更に伴う測量とか,境界線の標識が無くなった箇所の再測量等今な
  お継続しているとされています。


   換地交付の標準および補償金の基準となるべき従前の土地各筆の地積は,昭和
  21年9月9日現在の土地台帳地積によることとしましたが,1/600の丈量図の実測
  地積と規定以上に相違する場合は調整されました。


   区画整理の内容として,従来の都市計画街路は狭く公園緑地も無かったことから
  主要な道路は8m,12m,20m,25mに拡幅し,12m以上は歩道付き道路に計画さ
  れ,公園緑地も新たに設置するよう計画されました。
   道路位置が従来の位置で変更されず,そのまま拡幅されると従来の道路との境
  界から宅地側に官民境界線が後退し街区の中の宅地面積は減少することになりま
  す。そのままだと街区の場所によりその減少する面積の割合は相違することになり
  ますが,同一街区の中で宅地の形状変更や新たな区画割り等を行うことで一定の
  割合での減少となったようです。(以下減歩という)


   同一街区内の土地への移動にとどまらず,他の街区の土地に移動することで自
  分の土地を確保することもあったようです。戦後復興誌の記載によれば区画整理
  区域全体では19.1%の面積割の減歩率とあります。また同一所有(借地)者で
  25坪以下の宅地は原則として換地を交付せず金銭で補償した。減歩率調整のた
  め市は昭和21年度107坪,22年度に292坪をそれぞれ買収して公共用地に充当
  したという記載もあります。区画整理区域内の主要な道路を拡幅することから,
  10m以上の官民境界線の後退が必要になり,それに対応して従来の街区の形状
  自体も大きく変更され,街区内の区画の大規模な変更,大きな減歩,他街区への
  移転が必要となった場合もあり,宅地の形状変更,40%以上の大きな減歩,外の
  街区の場所への移転を不服としてそれぞれ訴訟が提起されたとあります。


   建物移転については,整理区域内を5ブロックに分けて各ブロックにそれぞれ選
  任の係員を配置し,昭和21年度において移転家屋を実地に調査して移転計画を
  立てた。この計画に従って昭和22年度より移転工事に着手し,31年度までに建物
  633戸の移転を行い,昭和32年度18戸を移転する予定でこれをもって建物移転は
  全部完了するとあります。


区画整理説明補足
   結局,登記手続き完了は昭和51年となり長い期間を要することになりました。
   区画整理事業が終了するまでに長期間を要したため建物移転を余儀なくされた
  もの以外は既設建物の下に新たな境界線を設置することは極力控えられたようで
  す。この地方の特徴として複数の大地主により大部分の宅地が所有されており,
  その大地主から借地をして自己所有の建物を建てることが多く借地権が所有権と
  同様に扱われています。


   換地計画の資料としては観測年月昭和24年3月28日,製図年月昭和41年3月
  24日,縮尺1/500の図面(以下換地計画図という)があります。この換地計画図
  は現在では公開されていないようですが,当時不動産業者等の関連業者には提供
  されており,現在でも所持している業者がいるようです。


   最終的に区画整理の成果として登記所に持ち込まれたのは昭和51年になりまし
  た。これが昭和51年10月6日法務局備え付けの「地図に準ずる図面」(以下昭和
  51年地図という)です。同時に以前の耕地整理図は閉鎖されました。


何故もめているのか
   戦災で焼け出され疎開先に避難していた人々が一斉に元々住んでいた場所に建
  物を急いで建てたようです。
   中には不法占拠もあったようです。そのような状態の中で(図1)のように大地主
  甲所有の土地におじさんの亡父Bの所有する建物(以下B所有建物という)とC所
  有の10坪の建物(以下10坪建物という)が昭和21年の区画整理事業開始とほ
  ぼ同時期に建築されました。
   区画整理前の耕地整理図ではこの甲所有の土地は大きな土地であったようで
  す。


   区画整理事業中の昭和33年にC所有の10坪建物をおばさんの亡夫AがCから購
  入し,同時におばさんの亡夫Aがおじさんの亡父Bと10坪建物の敷地について土
  地10坪の転貸借契約を結びました。
   建物自体の所有権については何等問題ありませんが,土地10坪の転貸借契約
  範囲が問題になりました。


   詳しく説明すると,10坪建物の敷地はC所有ではなく大地主甲の所有でした。大
  地主甲からおじさんの亡父Bが貸借している耕地整理時の土地の灰色表示部分に
  B所有建物とC所有の10坪建物が所在していたようです。甲から貸借している土地
  の一部をBが甲に無断でCに転貸借をしていたようです。


   そのような10坪建物を昭和33年におばさんの亡夫Aが購入し,同時にBとAの間
  で10坪建物の建物維持のために土地10坪の転貸借契約が結ばれました。通常の
  状況であれば問題は起きなかったのかもしれません。ただ,これが区画整理事業
  中であったことから状況は混乱しました。


   昭和29年に換地予定地の指定が終わり,昭和32年に区画整理区域内の建物の
 移転が終了したので昭和33年にCとAとの売買,BとAの転貸借契約が結ばれました


   現地の状況は変わりませんが,換地指定により既存の土地の減歩により形状を
  変更して小さくして,空白となった場所に別の土地をそこにはめ込まれる形の処理
  がなされました。


   結果的に10坪建物は減歩された土地の存続部分とはめ込まれた土地とにまた
  がって所在するようになってしまいました。区画整理の複雑で特殊な事情が入り混
  じり,BとAの土地10坪の転貸借契約書も10坪の表示のみで明確な範囲を示す正
  確な図面が添付されず,土地10坪の基準となった南側の位置すら解らなくなりまし
  た。


   現在その処理の経緯が明確に解る資料はありません。戦災復興誌の記載から昭
  和29年3月に指定を終了して従前の土地と整理後の土地とを対照した図面を換地
  予定地指定通知書に添付して所有権者,借地権者別に送付したとあります。昭和
  33年当時BとAの契約当時者間では転貸借の土地10坪の範囲も明確だったのか
  もしれません。しかし,契約当時からでも50年以上が経過し,BもAも故人となり権
  利を引き継いだおじさん,おばさんがそれぞれ自分なりに解釈したため誤解を生じ
  ることになりました。


詳 細
   区画整理により10坪建物のある街区も道路の拡幅等の関係から減歩されました
  耕地整理図によればこの街区の北半分は大地主甲の土地で393.51坪もある大き
  な土地でした。


   この土地の減歩の結果,30坪の土地(以下30坪土地という)が新たに作られた
  ようです。区画整理では30坪を最少単位の1筆として扱っており30坪以下の土地
  については過小土地として,所有権別に一筆を作成することをせず共有土地のひ
  と固まりとして共有持分で処理されています。


   30坪土地の一部に10坪建物の敷地の大部分が繰り入れられました。この30坪
  土地の中には昭和33年当時5つの建物が所在しており,この30坪土地の利用状
  況は測量されていましたが,昭和33年はまだ区画整理事業の処理中ですから,新
  たに出現する30坪土地には直接登記処理をする事が出来ません。


   昭和29年に換地計画は完了していたことから,権利を公示するために30坪土地
  に形式的に移動してくることになる土地の登記簿を利用して分筆や所有権移転登
  記が行われました。これが登記簿で「従前の土地」として表示されることになる
  36坪の土地(以下36坪土地という)に対して行われました。この36坪の土地にお
  ばさんの共有持分は1,128/3,600として登記されました。36坪土地は規定の減
  歩率にしたがい30坪になるので分母が3600とされたのでしょう。これを30坪の割
  合に単純に換算すると31.07u(9.4坪)になります。


   細かい特殊な状況までは登記に反映すことが出来ません。10坪建物の転貸借契
  約については大地主甲の承諾が無いものであったことから,個人間での契約とい
  う事になったのだと思います。このあたりがこのもめ事をわかりにくくしています。
  昭和29年には従前の土地と整理後の土地とを対照した図面を換地予定地指定通
  知書に添付して借地権者にも送付されているはずです。ただし転貸借契約は個人
  間の問題であり市は関与していません。換地計画図と耕地整理の形状の比較図を
  送られてきたはずなので,転貸借の範囲が明確ではない適当な契約になってしま
  った可能性があります。


   その後,昭和51年に区画整理の成果として,別街区にあった36坪土地の登記簿
  の内容が30坪土地の内容として処理されました。これにより現地と登記簿記載事
  項との関係は一致するようになりました。所有権は共有持分のままでしたので昭和
  55年に利用状況に応じて5筆に分筆した後,28.15u(8.5坪)がおばさん所有地
  となりました。この分筆処理についても持分による面積31.07u(9.4坪)どおりで
  ないとして問題が生じたのですが・・・。


   このような状況ですから,おばさんもおじさんもお互いに10坪建物の敷地におば
  さん所有の土地と大地主甲所有の土地があることは承知しています。その境界(
  以下甲・A境界という)については全く争いがありません。ただ,10坪建物の建物
  維持のためにAとBで結んだ転貸借契約の10坪の転貸借範囲が問題になりまし
  た。


おじさんの主張
   おばさんの亡夫AがC所有の10坪建物を,おばさんが甲・A境界線から北側の
  8.5坪の土地を購入した事,10坪建物に対して土地10坪の転貸借契約を行ってい
  る事は間違いない。

   昭和33年にAがCから10坪建物を購入した際に,建物の維持のためBとの10坪
  の転貸借契約を結んだが,それは単にCとの契約内容をそのまま引き継いだもの
  である。転貸借10坪の範囲は,購入した甲・A境界線から南側部分の8.5坪部分も
  含んでいたものである。したがっておばさんは転貸借契約10坪の残り1.5坪の部
  分を引き継いでいるにすぎない。


   10坪建物の面積は登記簿から31.80uで9.61坪である。
  (図2)のとおり,現在の10坪建物は壁の外側部分を測ると5.10mと7.06mの長方
  形の建物である。床面積は5.10m×7.06m=36.006uとなるが,これを坪に換算
  すれば10.89坪で,登記簿と相違するのはおばさんが北側部分を増築したためで
  ある。甲・A境界線から1.5坪を確保すれば)の点線(灰色表示部分)で示すとおり
  0.625m北側の位置となる。10坪建物はその位置よりも更に北側に1.062m入り
  込んでおり10坪建物北側外壁までとしても2.5坪ほど入り込んでいる。入り込んで
  いる部分については転貸借契約をしていない範囲だからその部分については土地
  を戻し,建物も入り込んでいる部分は取り壊すべきである。


おばさんの主張
   昭和33年に10坪建物敷地の一部(8.5坪)を購入した。同時におじさんの亡父
  Bとおばさんの亡夫Aが10坪建物のために土地10坪の転貸借契約を結んだ。
   敷地の購入部分と転貸借契約した土地は別の土地である。甲・A境界線から南
  側にAが購入した8.5坪の土地があり,甲・A境界線から北側に10坪の転貸借部分
  がある。
   10坪建物については,2階部分は増築したが,1階部分の形状に変更はない。
   甲・A境界線から北側に10坪の転貸借契約の範囲があるのだから10坪建物が
  入り込むはずはない。現実にB所有建物と10坪建物の間隔は1.60m以上あり,そ
  の間は通路として私達夫婦が使用していた。

   おじさんは定年後,B所有建物を壊して昭和52年に新たな建物(以下52年建物
  という)を建てたが,それまでは別の都市で生活していため詳しい事情は承知して
  いないはずである。
   52年建物と10坪建物との間は0.55mで以前のB所有建物との間隔からすれば
  狭くなっている。これは52年建物を建てる際に10坪建物に近づけて建築したため
  である。


建物の単位・土地の単位
   10坪建物は増築により11坪となってしまったのでしょうか。おばさんの証言によ
  れば,10坪建物を平屋から2階にするため2階部分の増築を行ったが1階部分に
  ついては形状の変更は行っていない。昭和33年にCから取得したままの状態との
  事。おじさんも帰省して昭和52年建物を建てるまでは勤務の都合で別の都市で生
  活していたので昭和33年当時の事情を明確に知っている訳でもないようです。


   10坪建物の登記簿をみると実施後測量されたものでは無く9.61坪の従来の表
  示をメートル法実施により31.80uに換算して表示されています。
   昭和21年におじさんの亡父Bが申請した戦災都市に於ける建築制限承認申請書
  と添付図面をおじさんが保管していました。昭和21年6月申請で昭和21年12月に
  許可になっているものです。申請書の記載事項によると申請者B,土地所有者甲,
  木造平家建,建坪13.5坪,借地面積38坪とあります。


   添付書類として土地所有者甲の承諾書があり,添付された図面(図4)にはB所
  有建物の配置と境界までの寸法が入っています。建物の寸法は南北方向の4.5間
  のみ記載されていました。
   おじさんが自分の記憶を基に建物の寸法を表示されていましたので,建物の寸
  法も一緒に(図4)に記載しました。この(図4)から申請書記載事項を確認します。

   B所有建物の面積
     3.5間 × 2間 = 7坪
     2.5間 × 2間 = 5坪
     3間  × 0.5間=1.5坪
           計   13.5坪  
     uへの換算 13.5坪÷0.3025=44.628u


   甲からAの借地面積
     4間 × 9.5間 = 38坪ということになります。


道路後退
   西側道路と北側道路については当時の道路は3間巾(3×1.818m=5.454m≒
  5.46mで表示)で道路後退は道路の中心から3.0mとあり,0.27mが道路後退の距
  離です。現在は6.0m幅の道路となっています。


土地の距離単位と建物の距離単位の相違
   (図4)には昭和21年に大地主甲からBが貸借していた土地の形状が記載され,
  昭和21年6月にB所有建物のために申請がされています。区画整理前の申請であ
  ったことから減歩もされず,換地の指定もされていない土地の形状で道路後退の
  みが表示されています。
   ここから説明の重複を避け簡単にするため,数式中のカッコの中身は説明書き
  として表示します。


   (図4)から1間=1.818mで計算すると,南北方向の総延長は9.5間(9.5×
   1.818m=17.271m)です。


   南北方向の距離を更に個別の距離で確認します。
   1尺=0.303mとして計算します。
   4尺(4×0.303m)+4.5間(4.5×1.818m)+4間(4×1.818m)+道路後退
   0.27m=16.935mは,総延長の9.5間(9.5×1.818m=17.271m)とは
   0.336m相違しています。


  0.05間程度(0.09m)であれば誤差でしょうが,誤差以上の相違があるようです。
  建物の床面積を算出した寸法は1間=1.818mなのでしょうか。
  1間(1.818m)×1間(1.818m)=1坪(3.3051u)とされています。
  (厳密には1間=1.8181818…m,1坪3.305785…uです。)
  建物には尺が使用され1尺=0.303mですから6尺(6×0.303=1.818m)=1間とな
  ります。

   建物の建築に際しては6尺3寸(6.3×1.818=1.9089m≒1.91m),
   6尺4寸(6.4×1.818=1.9392m≒1.94m),
   6尺5寸(6.5×1.818=1.9695m≒1.97m)という寸法が一般的に使用されてい
  るようです。


   そこで(図4)の南北方向について個別の距離計算の建物部分について1間を
  1.91mとして計算してみると, 0.27m+4尺(4×0.303m)+建物の4.5間(4.5×
  1.91m)+4間(4×1.818m)=17.347mとなり,南北の総延長表示の9.5間(9.5×
  1.818m=17.271m)により近い数値になります。


   どうやら建物の寸法と土地の寸法が混在しているようです。


   B所有建物の床面積の計算を1間=1.91mとすると
   3.5間(3.5×1.91=6.685m) × 2間(2×1.91=3.82m) =
                                    7坪(25.5367u)
   2.5間(2.5×1.91=4.775m) × 2間(2×1.91=3.82m) =
                                    5坪(18.2405u)
   3間(3.0×1.91=5.73m)  × 0.5間(0.5×1.91=0.955m)=
                                   1.5坪(5.47215u)
                  計   13.5坪(49.24935u)となります。
   土地と同様に換算すると49.24935u×0.3025=14.897928375坪≒14.9坪
  となります。


10坪建物の床面積
   10坪建物の現在の床面積について検討します。木造建物の床面積計算は柱中
  心での距離になります。1間=6尺3寸,使用している柱は3寸柱(0.09m)とすれば
  柱の半分0.045mをそれぞれに減ずることになりますが,結果的に柱1本分を除け
  ば良く,5.10m−0.09m)×(7.06m−0.09m)=34.9197uとなります。
   単純な坪換算では34.9197u×0.3025=10.56坪ですが,1間=1.91mとして坪
  計算してみると(5.01m÷1.91m=2.623間)× (6.97m÷1.91m=3.650間)
  =9.57395坪となります。
   現在の床面積計算で得られた34.9197uを単純に土地と同様の方法で坪換算
  すれば10.56坪ですが,尺貫法で昔風の建物の面積計算を行えばメートル法換算
  前の登記簿の坪面積表示9.61坪と一致します。


   10坪建物の1階部分は内部の改装はされていますが増築されてはいないようで
  す。


矛 盾
   (図4)の南北方向については都合の良い理論が成立しましたが,東西方向を確
  認すると矛盾する記載があります。
   東西方向の総延長距離4間(4×1.818m=7.272m)ですが,個別の距離を一つ
  一つ加算すると,
   道路後退0.27m+4尺(4×0.303m=1.212m)+3.5間(3.5×1.91m=6.685m)
  =8.167mで,その差が0.895mとかなりの距離の相違が生じます。
   ただし,建物の1間=1.818mとして計算をしても道路後退0.27m+4尺(4×
  0.303m=1.212m)+3.5間(3.5×1.818m=6.363m)=7.845mとなり,
  0.573m相違しています。


   仮にB所有建物が東西方向3間,南北方向4.5間の長方形の建物3間×4.5間
  =13.5坪であれば
   道路後退0.27m+4尺(4×0.303m=1.212m)+3.0間(3.0×1.91m=5.73m)
  =7.212mとなり,都合良く説明ができますが,添付図面の建物は明らかに凹凸
  があり,おじさんの記載された寸法も凹凸のある形に合致しています。


   当時から所在している10坪建物がBの大地主甲からの貸借地に所在して,増築
  等変更のないことは確実ですから,10坪建物で確認すると,西側道路から10坪建
  物の東側外壁までの距離が7.50mあります。東西方向の距離4間では10坪建物は
  はみ出てしまいます。この4間の記載は誤りと思われます。


   そこで,現在の10坪建物の敷地を確認すると東西の巾は7.86m(7.86m÷
  1.818=4.323間)です。これは現在の道路が6m幅になっているので,道路後退分
  を差し引いて考えてもよいでしょう。
   4尺(4×0.303m=1.212m)+3.5間(3.5×1.818m=6.363m)=7.575m
   4尺(4×0.303m=1.212m)+3.5間(3.5×1.910m=6.685m)=7.897m
   4尺(4×0.303m=1.212m)+3.5間(3.5×1.940m=6.790m)=8.002m


   現在の北側道路との間口の距離は8.11m,10坪建物敷地の東西の巾は
  7.86mですので,建物部分の1間を1.91mの換算をしても矛盾が生じることはない
  ようです。ちなみに,北側道路間口での距離は現在8.11mあります。以上から東西
  方向,南北方向について満足を得られるので建物部分の1間を1.91mで換算する
  こととします。


耕地整理図から
   (図5)の耕地整理図が「地図に準ずる図面」として法務局に備え付けられており
  昭和21年に現地の状況を確定した1/600の丈量図で換地計画は進められますが
  昭和51年に区画整理事業の成果図が備え付けられるまでは耕地整理図による土
  地の位置や面積を基準に登記がなされています。
   この地図の最初の状態からすればBが甲から貸借していた土地は広い土地(街
  区北側部分全部)の一部の灰色表示部分であり,(図4)から南北の奥行きが
  9.5間あり,東西方向の4.3間と思われます。


   耕地整理図で示す街区は道路に囲まれ,東西に走る境界線(以下背割線いう)
  により南北に土地の区画が分けられています。
   耕地整理図で距離を測り出せば,南側9.5間,北側9.8間,北側道路4間,西側
  道路4間,南側道路5間となります。そして灰色の土地の範囲にB所有建物とC所
  有の10坪建物が所在していたことは容易に想像することが出来ます。
   昭和22年には換地計画が開始されていますので,B所有建物や10坪建物の建
  築中もしくは建築された後に換地が指定されたものと思われます。


   (図4)の申請書添付図面から昭和21年当時Bが甲から貸借していた土地の形状
  が明確になり,10坪建物について建物の1階形状の変更が無いことは明確になり
  ました。


   そこで,(図6)昭和41年の区画整理計画図面と比較してみます
   昭和21年に申請されている場所は,(図6)の昭和41年区画整理計画図のうち
  灰色表示をした部分です。昭和41年の街区についても間口の距離はそれぞれです
  が,街区の東西を走る背割線を基準に北側土地の奥行き9間,南側の土地の奥行
  き9.3間になっています。


   昭和7年の耕地整理図による街区の東西を走る背割線と昭和41年の区画整理
  計画図の背割線は同一なのでしょうか。同一の背割線であり南側や北側の道路境
  界がそれぞれに大きく後退したものなのでしょうか。昭和21年申請添付図面をみ
  ると,西側と北側道路については当時3間(5.46m)あり,6m道路とするために道
  路中心から3m必要として0.27mの道路後退を要求されています。現在は6m道路
  となっています。


   一方南側道路については区画整理事業で12m道路とされています。当時の道路
  巾5間(5間×1.818m=9.09m)からすれば相当の拡幅巾となります。
   従来の南側道路については5間道路(9.09m)であれば,道路中心線から振り分
  けると(12.00m−9.09m)÷2=1.455mの後退が必要であったということになりま
  す。
   これはそのまま歩道部分を新設したものと思われます。北側道路境界について
  は道路後退線の0.27mの距離を後退。南側道路については1.455mの後退です。


   効率の良い減歩の方法として,従来の背割線の位置を全体に変更する方法が考
  えられます。従来の背割線は北側道路官民境界線から9.5間でしたが,新設背割
  線は道路後退線0.27mから9間の距離にあります。従来の北側道路官民境界線
  からすると9.5間−0.27m−9間=0.5間−0.27m=0.5×1.818m−0.27m=
  0.639mとなり北側に0.64mほど移動して新背割線(昭和41年計画図での背割線
  位置)を作ったものと思われます。


   これにより,旧背割線から0.20〜0.30mほどの距離を空けて建築されていた
  10坪建物も新背割線からすれば0.30〜0.40mほど南側に入り込んでしまうこと
  になったのでしょう。


30坪土地の位置
   (図6)の換地計画図では,新背割線を無視する形で30坪土地が作られていま
  す。つまり区画整理前の耕地整理図や昭和21年の申請書添付図面のとおりこの
  街区の南側部分は従来の背割線までの南北方向の距離は9.5間であったものが
  減歩され,街区の新たな背割線までの南北の距離が9間になり,更に30坪土地が
  換地指定された。


   以上,昭和41年の計画図が示すとおりです。この地区の街区の建物は戦災で
  すべて焼失しており,昭和33年に10坪建物の売買をされているという事実とB所
  有建物は昭和21年6月申請で12月に許可になっており申請時に10坪建物は建築
  されていなかったことから,10坪建物は昭和22年から29年の間に建築されたもの
  ということになります。


   10坪建物の建築が換地計画の前なのか,後なのかによって転貸借契約の範囲
  が相違してくることになります。昭和22年には区画整理の測量は開始され,境界
  確認が終わり,換地計画が開始されているかどうかという微妙な時期のようです。


   戦災で避難していた人々が必要に迫られ急いで建物を建てた。従来のままであ
  ればBが貸借している土地の中に所在しているのだが,区画整理で減歩のために
  街区全体の背割線が北側に移動した。減歩により甲の土地の境界線が北側に
  0.64m移動すれば,Bの借地権も同様に減歩により移動することになります。


   10坪建物自体は移動していませんので,背割線にまたがって建つようになって
  しまった。10坪建物について1mほど北側に曳航移転すべきかどうか。
   建物を移転させないのであれば建物の維持管理という面からしても背割線から
  南側にあった従来の土地部分も必要と思われます。何故Cは10年程度で建物を
  Aに売ったのかという事も考慮する必要があるのかもしれません。この街区では
  道路後退で生じた全体の面積の減歩率は10%程度ですから,区画整理区域全
  体の減歩率19.1%からすればこの街区には余裕があります。


   救済処置として背割線を無視する形で30坪土地の範囲を減歩してその部分に
  飛び地換地として土地をはめ込み,土地の利用状況により利用者別に土地を購
  入させることにより問題の解決を図ったのではないかと思われます。


転貸借10坪の範囲の特定
   10坪建物の建築時にBとCにより転貸借契約が結ばれ,昭和33年にBとAで転
  貸借契約が結ばれています。これは昭和33年の契約書の内容をみても「地上の
  10坪建物の建物保護」を目的として土地10坪の転貸借契約を結んでいることに
  間違いありません。


   従来の背割線からの範囲であれば甲・A境界線の南側までに9.4坪(分筆では
  8.5坪)あり,建物保護のための転貸借契約とすれば10坪建物の大部分がはみ
  出てしまうことになり契約の目的と相違することになります。


   転貸借の範囲はこの新背割線を延長した線(南北の距離9間,16.362mの
  位置)から10坪建物の建物保護に必要な範囲だったと考えることが自然です。
   換地計画により点線部分の30坪土地が作られましたが,その外側の境界線で
  ある甲・A境界線に争いはありません。


   この街区の南北の総延長距離は18.3間です。新背割線を延長した位置は北側
  道路から9間の位置で明確です。新背割線の延長線からまず10坪の範囲を考察
  してみることにしました。


   10坪の範囲の特定方法は甲・A境界線に平行に,昭和52年に30坪土地を分筆
  している線を北側に延長してその範囲を特定してみます。そうすると10坪
  (33.058u)の範囲は甲・A境界線から1.300m北側の位置(転貸借の範囲
   3.09坪)になり,10坪建物は0.39m入り込んでいます。


   しかしこの土地10坪が10坪建物の敷地面積ということを単純に表現していると
  すれば,10坪建物の外壁面まで使用した実質の面積は5.10m×7.06m=
  36.006u(10.89坪)であり,10坪建物の北側外壁一杯までを範囲とすれば
  10.89坪丁度になります。(転貸借の範囲4.02坪)


   10坪建物の1階部分が増築されていないことや建物の10坪は土地の11坪にあ
  たること,通常の建物維持には建物の庇部分(この事例の庇は0.25mあり)まで
  を考慮すること等を考えれば少なくとも10坪建物の外壁部分か庇を加えた部分ま
  では転貸借の範囲と思われます。
   一方,おばさんの主張である甲・A境界線から同様にして10坪の範囲を確保す
  ると甲・A境界線から北側に4.20mの位置となります。
   10坪建物から1.00mほど離れていた甲所有建物に1.40mほど入り込みます。
   おばさんが主張するように1.60m開いていたとしても,やはり甲所有建物に
  0.80mほど入り込んでしまいますが契約時に自分の建物(B所有建物)の建って
  いる部分まで転貸借することはあり得ません。


   現在建っている52年建物の南側の外壁は10坪建物の北側外壁から0.55m離
  れた位置で,10坪建物により近くなっています。転貸借権者が建てて30年以上
  が経過していますので52年建物の南側の壁面外側までしか転貸借の範囲が及ば
  ないことも確かです。


話し合い
   以上の内容を説明したところ,おじさんは「父は生前に10坪建物は2.5坪入り込
  んでいると言っていた」とポツリと話されました。従来の背割線からであれば10坪
  建物は9.4坪入り込むことになり,おじさんの主張であれば8.5坪入り込むはずで
  すから,どうやら転貸借の範囲の前提となる基準線(背割線)の位置を勘違いし
  ていた事に気付かれたようです。おばさんも甲・A境界線から転貸借の範囲10坪
  を主張するにせよ転貸借権者の建物が所在する位置に入り込んでまでの主張は
  出来ないことは理解されていましたので,おじさん,おばさんともに52年建物の
  南側外壁から10坪建物北側外壁までの0.55mの範囲での話合いをすることに
  納得されました。


   話し合いでは,10坪建物の北側の建物庇が0.25mある。昭和55年の30坪土
  地分筆の際に10坪建物の東側の分筆境界線が10坪建物の外壁から0.40mの
  幅で確保されている。52年建物を新築する際にB所有建物と10坪建物の所在
  位置の中間位置まで52年建物を建てられている。52年建物の南側庇は10坪
  建物側には出ていない。


   以上を考慮してお互い通行の出来るようにして障害物を置かないことを条件に
  甲・A境界線から52年建物の南側外壁一杯までの南北巾
  (1.30m+0.39m+0.55m=2.24m)×東西巾7.86m=17.6064u(5.32坪)を
  転貸借の範囲として確認することになりました。


ふりかえる
   おばさんは区画整理で行った処理の説明について市役所や地主に説明を求め
  たそうです。
   しかし,事業開始から60年以上,登記完了時からでも30年以上昔の事です。
   市の担当職員は退職しており区画整理の詳しい内容を知る職員はいません。
   区画整理の書類等についても開示してはくれなかったそうです。
   土地所有者である大地主甲は会社組織になっていますが,市役所と同様に当
  時を知っている社員はいないという状況で,この区画整理事業の複雑な処理内
  容をだれも説明することが出来ない状況でした。
   仮に昭和33年当時おじさんとおばさんが説明を受けていたとしても,非日常的
  な特殊な処理ですから解らなくなるのは当たり前なのかもしれません。


   区画整理事業の内容も知らず,たどたどしい知識で持参された資料からなんと
  か事実らしきものにたどり着く事は出来ました。
   都合の良い解釈でたどり着いた結果なので,これが真実であるかどうかはわか
  りません。
   新たな資料が出現すれば結果は異なることになるのかもしれません。
   それなりの常識的な結論を導き出すことが出来て肩の荷は少し降りました。


   このもめ事の相談の中でおばさんが再々口にされていた事があります。
   昭和55年に土地家屋調査士が分筆をしたのに,何故持分どおり9.4坪
   (31.07u)とならず8.5坪(28.10u)となったのか事情説明はなかった。
   当時立会いをした覚えも無い。面積は共有持分どおりになると思っていた。
   何故分筆をした境界に標識を入れてくれなかったのか。


   分筆した新設境界に鋲でも設置していてくれたのなら,今回の位置関係の助け
  になり,こんなにもめる事はなかった。今ごろは依頼したら境界標識をきちんと入
  れてくれる。どうして入れてくれなかったのか・・・。


   30年前の事で,現在の測量や境界確認・明示方法を行うことが当然と言われて
  もそれは無理としかいいようがありません。その当時あなた方はそんな事を求め
  てもいなかったし,30年間何等もめてもいなかったのにと言いたくもなります。


   しかし境界に標識を入れることは鉄則です。当時はペンキ等の簡易なものを使
  用することが多かったようですが,後日問題のないようにすることが専門家として
  当然だと言われればその通りです。


   昭和50年代はまだ平板測量が主流の時代ですから,公共座標の使用やGNSS
  測量を行って位置を特定しろと言われても無理な話です。当時境界標識を入れて
  いたが工事で飛んでしまった。
   復元してくれと言われても,控え鋲や基準点が残っていれば何とかなりますが
  ・・・。
   どこまで責任を持たなければならないのか。将来どのような事が要求されるの
  か。現在出来る最大限の処理をしておけと言われても費用負担の兼ね合いもあ
  ります。依頼者がその要求に応じた負担をしていただけるのか。必要以上の事を
  処理してはいないか,我々土地家屋調査士にとっては難しい問題です。


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