土地台帳の外書、内書について


         (掲示板の内容から)



                         お山のおっさん


  質問


   (調査した土地の)土地台帳は内書、外書欄が空欄であり、閉鎖登記簿は
  内書、外書の記載が有りません。本来ならば、畦畔として内書、外書があって
  も良いと考えますが・・
   これは丈量当時に畦畔が存在しなかったと考えるべきでしょうか?それとも
  丈量時に最初から畦畔際から畦畔際までを丈量して畦畔を無視したと考える
  べきでしょうか?


  回答(お山のおっさん)


  明治維新の頃は、現在のように事業収益のない時代であったことから(全収益
 の95%が農業収益と記録あり)、国を運営する税は、農業収益から徴収する以
 外なかった。


  よって、藩政時代以前から、税は、農業収益から現物(年貢)を税として徴収し
 ていた。


  しかし、この年貢は天候や害虫被害の影響が大きく、安定した税徴収入が見込
 めなかった。


  そこで明治政府は、これまでの年貢負担者に土地の所有権を与え、その土地の
 面積や収穫高に応じた地価を課税標準とする定率の金納制度に改めた。
  これがいわゆる地租改正である。


  この地租改正事業のため、全国の一筆ごとの地番を定め、境界を確認し、面積
 が丈量され、地図作成された。これが現在も活用されている公図であり、公図地
 域の登記簿面積である。


  税は、田畑のうち、米、麦などが収穫ができる部分(耕作収益ある分)から税を
 徴収することとしたので、このとき行われた一筆ごとの丈量(面積測定)作業は
 収穫のない一筆の内の畦畔部分は丈量から省かれた。
 (現在も、収入が無いのに税は課せられないのと同じ)


  しかし、所有権を付与された農民たちは、丈量から省かれた部分(畦畔)につい
 て再び国に取り上げられると誤解し、全国的に紛糾した。そこで、明治政府は


 【明治9年11月13日内務省達乙第130号 丈量ノ際畦畔削除ニ付達】
  丈量ノ際畦畔ノ歩数ヲ除キシハ収穫調査ノ都合ニ依ルモノニシテ,右ハ該田畑
 ニ離ルヘカラサルノ地ナルニ由リ,官民有地ヲ論セス其本地ノ地種ヘ編入シ,券
 状面外書ニ其歩数ヲ登記スヘシ。但地租改正ノ際既に畦畔ヲ算セス,丈量済ノ分
 ハ漸次本文ノ如ク改正スヘシ


  上記の通達を出し、畦畔部分を外書とし、一筆地の内ではあるが、除税地を意
 味する外書とすることを通達した。


  しかし、全国の多くの地域は、明治8年後半に事業に着手し、明治9年末から
 10年末にかけて事業が完了しており、上記の通達が出された時には、外業作業
 は終わっていたかほとんど終わっていため、畦畔を丈量し直したのはごく一部の
 地域でしかなく、畦畔を外書に表示したのも全国でごく一部の地域でしかなかった。


  その理由は、畦畔は税と関係のない土地であったことによる。よって、地引帳に
 記録がないことから、土地台帳にも登録されていない。


  よって、田に畦畔がある限り、外書がなくても畦畔は存在する。ただし、明治18
 年以降の地押調査が行われた地域の丈量は、畦畔を含めて丈量されているよう
 なので、地域によって状況は異なると思われる。よって、地域の地租改正事業の
 調査が重要と考えられる。


  明治22年土地台帳制度が制定された時、分筆等の際の丈量は畦際から丈量す
 るよう、指示されていたが、その後、時代の進展にともない、境界紛争が発生する
 ようになり、丈量は畦畔を含めるように指示された。


  そのため、大正3年3月28日訓令第20号 地租事務規定 (東京税務監督局長)
 第22条 土地台帳中外書に係る畦畔などは、異動の都度本地に量入すべし。
  墳墓地など別地目と為すべきものは、異動の都度本地より分筆すべし。


  とされるようになった。


                                平成21年9月

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